| 尾瀬氏に関する伝説はいろいろある。 尾瀬は悪勢とも書かれ、他村にもある地名で、多く山中の湿地のようなと ころを呼んでいる。 ![]() 尾瀬氏の伝説には、それぞれ年号までついているが、真偽はともかく年代 順に述べると、大同二年(八〇七年)尾瀬氏は武寺として土井出庄に、大円寺の前身の寺を建てた。大円寺の由緒書によれば、 創立ノ開基ハ当地古城主尾瀬氏ナリ。往昔空海大師来寓ノ結縁アリ、杉枝二本ヲ自ラ生エ絵フト云ヒ伝ヘタル古杉、現在ノ観音堂(旧阿弥陀堂)ノ前二存在シタリシヲ、明治維新後、廃仏棄釈ノ余弊ヲ蒙リ、伐木発却セラレ旧蹟ヲ絶テリ。 現在立ツ所ノニ本杉ハ、ソノ後村人ノ反省アリテ植樹セルモノナリ。 康平五年(一〇六二年)安倍の一族、尾瀬次郎定連は、かねて都にて朝延 に仕えていたが、ある時勅勘を蒙り、都を落ちて故郷へ向う途中、官司(か んし)に追われたか、土賊に襲われたかは不明だが、道を断たれて主従五十 騎が自害して果てた。定連の奥方保多賀御前は、内裏(朝廷、皇蜜のこと) の流れ(縁故ある者)だったが、夫と共に都を出で、からくも助って当地へ 着き給ふとあり、そのところを御座入と称した。 この話は越本にもあり、ほぼ同様だが、こちらでは尾瀬三郎となってい る。三部都へ出て朝廷に仕え、身分の高い姫君を妻とすることが出来たが、 三郎も勅勘の身となって帰国した。妻も夫に従って当地に来たが、気候風土 の違いから、やがてわずらってみまかったので、土地の人があわれに思って 祭ったのが、越本の御前宮だというのである。 次は年号不明、安倍貞任が亡んだ後、その子が燧岳(ひうちだげ)に城を 建てて籠った。けれど年貢を納めてくれる者がないので、附近の部落へ押し かけて財宝を奪った。そこで悪勢(おぜ)と呼ばれ、それが尾瀬氏となっ た。(戸倉伝説) 尾瀬氏の城は、尾瀬ヶ原の牛首だったとの説もある。その近くには、上ノ 大堀、下ノ大堀、寺ヶ崎等の地名があるそうで、また長蔵小屋の近くの湿原 の中に尾瀬塚というのがあって、尾瀬氏の墳墓だといわれる。(戸倉伝説) 治承二年(一一七八年)ごろ、尾瀬中納言という人があったという。 正中二年(一三二五年)尾瀬城主尾瀬兵衛は、後醗醐天皇に味方したた め、北条範貞に亡ぼされた。これで尾瀬氏はついに滅亡したという。 貞治六年(一三六七年)亡んだ尾瀬氏の供養のために、古仲の観音堂の前 に、供養塔が建てられた。(以上古仲伝説) 尾瀬氏に関する伝承は、だいたい以上の通りである。大同といえば平安朝 の始りだが、寺院建築はすでに奈良朝時代から始っているので、長者屋敷の 伝説といい、尾瀬氏ならずともだれか豪族がいて、寺を建てたものであろ う。また尾瀬氏は奥州安倍の一党ではないかということは、あながち否定出 来ない。中納言などという高い位は、何かの間違いであろうが、安倍の残党 が逃げて来たということは、利根郡が奥州と越後に接近して、まだ蝦夷の勢 力圏内であったかも知れず、藤原などにも残党がかくれたという伝説があ る。ちょうど平家の落武者が、所々の山中にかくれたと同様、山深い土地だ けに、そういうこともあったかも知れない。 以上 片品村史より |