八幡太郎義家
八幡太郎義家に関する伝説は、本村ばかりでなく、利根郡にはなかなか多
い。本村に伝わるものは次のようである。
八幡太郎義家が前九年の役(えき)で、安倍貞任を退治し、弟の宗任をと
りこにして、都へ凱旋(がいせん)する時、奥州から本村の道を通った。と
ころが安倍の家来たちが、主人宗任の身を心配して、大勢の者がどこまでも
後からついてくる。いくら追い返そうと思って叱ってもむだであった。そこ
で義家は一策を案じて、安倍の家来たちにいうには、
その方たちが主人の身を案じて、ついてくる心根はまことにふびんである。だが
追々都へも近づくことなれば、朝廷に対しても恐れ多い。この地は奥州と都との
半ばの地なれば、ここにとどまって吉左右(きっそう)を待て、宗任について
は、自分が必ず赦免(しやめん)を願うであろう。
恩情ある義家の言葉に、宗任の家来たちも相談して、何事もお主のため
と、一同この地にとどまることとなり、やがて所の民となった。
義家が利根郡を通ったことは、同じ郡内の下牧にも、利根川を越えた時の
話が、いろいろ伝わって居り、同所の玉泉寺には、義家が着用した鎧(よろ
い)といわれるのが、寺宝として保存されている。
また「鶴の墓」という伝説がある。
その一つは、義家が尾瀬を越える時、鶴を放した。その鶴が死んだので、
安倍貞任の家来の、ぶんじ保高というものが、ひそかにかくしていた貞任の
子の病気平癒を祈願するつもりで、その鶴を鳩待峠の辺に葬って墓を建てた
というのであって、その鶴には黄金の丸印(ふだじるし)がついていたとい
う。(伊閑町伝説)
今一つは、貞任は厨(くりや)川の戦いに敗れて尾瀬にのがれ、ここに城
を築いたが、にわかの事で糧食が乏しいので、尾瀬に棲む三羽の鶴に、義家
の禁札がついているのを幸い、郎党に打ちとらせ、その罪人を所の役人に届
けて賞金を貴い、それによって糧食をととのえたが、のちに撃った鶴をあわ
れんで、その墓を作ってやったという。(戸倉伝説)
それらの鶴については、義家は奥州からの帰途、尾瀬へくると、丹頂の鶴
を放して、戦勝を神に感謝した。その鶴が尾瀬へ凄みついたという語もあ
る。(戸倉伝説)
今では鶴や白鳥がシベリヤから、わが国へ渡来することは、だれでも知っ
ている。昔は尾瀬にもたくさんの鶴や水鳥の仲間が渡って来たのであろう・
大字摺淵にも鶴の話がある。摺淵の東の川原の大岩には弁天様が祭ってあ
り、そこの下の淵に、よく鶴が来ているので、土地の人が「鶴淵」と呼ん
で、それを村の名にした。これが後にスルブチ(摺淵)となったもので、そ
れが証拠に村の念仏鐘に、年号はないが、「上州利根郡鶴淵村阿弥陀堂願主
海心」と、銘のあるものがあるという(摺淵伝説)
次は鶴には関係ないが、やはり義家の話。義家はこの摺淵にしばらく滞在
したが、彼が都より奥州へ向う途中、駿河の三島神社に参拝して戦勝を祈願
した。そのおり守り札をいただいて、これを兜の鉢に納めておいたのを、こ
の摺淵に滞在中、村の者にくれた。村の人は大変喜んで、村の守護神に、こ
のお札を御神体として、三島神社を建立したと伝えられる。(摺淵伝説)
なお蝦夷に関しては、大字築地にも次のような伝説がある。
昔、上毛野君形名(かみっけのきみかたな)という人が、蝦夷を征伐した
時、蝦夷の一群が間道づたいに逃げて来て、築地のあたりまで来ると、それ
から先には道がないので、現在の寺場のところへ小屋を作って一時をしのい
だ。そこで道が尽きたので「尽き路」という名をつけたという。これなどは
しゃれた伝説である。もっとも築地には蝦夷久保という小字も残っているか
ら、まんざら蝦夷に無縁の土地でもないようである。
さて以上の通り、本村には蝦夷関係の伝説が多いのであって、これは前に
も述べたふうに、この地が奥州の勢力圏であった時代が、相当長くつづいた
からであろうが、これよりはるかに後代の徳川時代から明治にかけても、本
村は会津方面とは交易その他で、密接な交渉を持っていたものであり・奥州
とは古い時代から関係があったものである。
保多賀御前
ここでは女性(にょしよう)に一人御登場を願わう。前の尾瀬氏のところ
で、次郎定連の妻、保多賀御前とあった、その人である。
保多賀御前は夫に従ってこの地に来たが、道で悪者におそわれ、ようよう
山にかくれたりして御座入にたどりつき、ここに住むこととなった。ある時
御前は、花咲に、石に花咲く世にも珍しいことがあると聞いて、ぜひ見たい
ものと思い花咲へ行ったが、しばらくそこに住むこととなった。そしてつれ
づれに里の女や子供に、いろいろの学問や業を教えた。ところがある日、畑
に作ってある芋殻をふんですべり、また胡麻殻にふれて目を痛めた。これを
里の人たちがいたわったので、目は癒えたげれど、その後病気のため九月中
の申(さる)の日にみまかった。
里の人々はその徳を慕い、御前を神に祭って武尊大明神に合祀した。その
後花咲では、芋と胡麻は作らないこととした。(花咲伝説)
もっともこの芋と胡麻の話は、その他いろいろに伝っている。それは別に
お話しする。